👀 前回の続きとして──弱視だったころの話
前回の記事の続きになるでしょうか。
弱視だった時代の思い出を、もう少し書いてみます ✍️
もしまだ読んでいなければ、そちらも読んでもらえると、
少し共感してもらえる部分があるかもしれません。
🏫 盲学校の中での「見えている側」
今では盲学校に少なくなった全盲の生徒ですが、
私が弱視だったころは、生徒にも先生にもたくさんいました。
外に出るときは、
👉 弱視が全盲の手を引く
──これはごく自然な光景でした。
そして前回も書いた通り、盲学校では
👉 弱視=「見えている側」
として扱われます。
外の世界では、晴眼者との比較によって弱視も「障碍者」や「目の悪い人」として見られるけれど
盲学校では違う。
⚖️ 「見えている側」の責任
私の周りには、全盲、あるいはそれに近い生徒が多く、
私はより強く「見える側」としての役割を求められていました。
たとえば、
- 🧹 掃除
- 🍽️ 給食の準備
- 🍳 調理実習
こういった場面では、
👉 弱視が中心になって動き、全盲に指示を出す。
ここまでは、ある意味当然の流れです。
でも問題はその先。
⚠️ すべてが弱視の責任になる
もし誰かが手持無沙汰にしていれば
👉 「弱視がちゃんと指示していないからだ」
ぶつかる事故が起これば
👉 「弱視がちゃんと見ていないからだ」
片付け忘れがあれば
👉 「弱視が確認していないからだ」
そして最終的には、
👉 「見えてるんだから、もっとしっかりしろ」
矛先が全盲に向くことはあまりなく、
多くのことが弱視の責任として扱われていました。
これが、「見えている側」という立場です。
🗣️ 初めての抗議
私たち弱視生徒は、ついに先生に抗議しました。
話し合いの場で、
- なぜ弱視ばかりが怒られるのか
- 全盲には全く責任がないのか
- 弱視も同じ視覚障碍者であることを忘れていないか
そうした思いを、正直にぶつけました。
さらに、全盲の生徒の話を聞いてみると、
👉 「自分のせいで弱視が責められているのがつらい」
👉 「申し訳ないと思っている」
という声がほとんどでした。
誰もが、それぞれの立場で苦しさを感じていたんです。
弱視が二人、三人いたとしても、
👉 健常者の視力になるわけではありません。
誰がどこで何をしているのか、
すべてを把握するなんて無理です。
それに、自分のことだってやらなければいけない。
🤫 忘れられないひとこと
あるとき、先生に怒鳴られました。
👉 「Cさんが手持無沙汰だぞ!」
私は慌ててCさんのもとへ向かいました。
そのとき、彼女が小さな声で言ったんです。
👉 「ごめんね。私が声をかければよかった」
正直、私も心のどこかで
「声を出してくれたら…」と思わなかったわけじゃありません。
でも、申し訳なさそうな彼女を責める気持ちは全く起きませんでした。
🤝 話し合いで見えたもの
この話し合いを通して、
弱視の多くが不満を抱えていたこと
全盲の多くが気まずさや罪悪感を感じていたこと
その両方が明らかになりました。
🌙 全盲になってから気づいたこと
そして、全盲になった今、
逆の立場で気づいたこともあります。
それは、
👉 弱視を頼ることの難しさ です。
視力がしっかりある人には、ある程度遠慮なく頼めます。
でも、弱視の場合は
どこまで見えているのか
どんなふうに見えているのか
👉 それが分からない。
だからこそ、
👉 どこまで頼っていいのか判断が難しい のです。
これは障害に限った話ではありません。
たとえば……
👓 老眼や近眼の人に代読を頼むのも、少し気を使います。
もちろん、どうしても必要なときはお願いするしかありません。
ヘルパーさんの中にも、老眼の方は少なくありません。
それでも頼みやすいのは、
👉 「役割として頼める関係」だから
老眼鏡やスマホを使いながら、
一生懸命サポートしてくれます 📱
でもそれは、
👉 「ヘルパーさんだから
🌱 それぞれの立場のむずかしさ
弱視にも、全盲にも、
それぞれの立場の難しさがあります。
そしてその間には、
👉 言葉にしにくい距離や遠慮がある
そんなことを、感じています。