輪郭をなぞりながら、そろり日々をたどるメモ

全盲として過ごす、ささやかな日々の記録。

【お知らせ】AIと音でYouTubeはじめました

🎧 YouTubeでAI音楽、はじめました

突然ですが、お知らせです。
以前、もうひとつのブログを紹介しました。
音楽生成AIについてのブログです。
ブログのURLはこちら↓
https://lyranex-memoir.hateblo.jp/
「音の手触りを探して…ぐるぐる考え、ゆるっと書くメモ」

実は今月から、YouTubeでAI音楽の投稿を始めました。
夫にも協力してもらいながら、
スクリーンリーダー(音声読み上げ)や画像生成AI、チャットAIなどを活用して、動画制作にも取り組んでいます。
「見えないのにどうやって動画やサムネイルを作っているの?」と気になった方は、
ぜひ上記のブログをご覧ください 👀


☕ 公開中のBGM

YouTubeでは今のところ、
作業中やリラックスタイムにぴったりのBGMを公開しています。
たとえばこんな作品があります 👇

🍀 アイリッシュフォークBGM(14曲)
https://youtu.be/4PlHt8zVTZs

🎸 静かな午後のアコースティックギター|カフェ風リラックスBGM(15曲)
https://youtu.be/ybBP7ZkUMQE


🌱 これからについて

まだ始まったばかりで本数は多くありませんが、
今後さらに作品を増やしていく予定です。
現在はほかにも
「カントリー風BGM」や「フラメンコBGM」などを公開しています。
YouTubeで
「Lyranex(リラネックス)」と検索して、ぜひ聴いてみてください 🎶

日常にそっと寄り添える音を届けていけたらうれしいです。
これからも、どうぞよろしく ✨

なぜ弱視ばかり怒られるのか: 盲学校のリアル

👀 前回の続きとして──弱視だったころの話

前回の記事の続きになるでしょうか。
弱視だった時代の思い出を、もう少し書いてみます ✍️

もしまだ読んでいなければ、そちらも読んでもらえると、
少し共感してもらえる部分があるかもしれません。


🏫 盲学校の中での「見えている側」

今では盲学校に少なくなった全盲の生徒ですが、
私が弱視だったころは、生徒にも先生にもたくさんいました。
外に出るときは、
👉 弱視が全盲の手を引く
──これはごく自然な光景でした。

そして前回も書いた通り、盲学校では
👉 弱視=「見えている側」
として扱われます。

外の世界では、晴眼者との比較によって弱視も「障碍者」や「目の悪い人」として見られるけれど
盲学校では違う。


⚖️ 「見えている側」の責任

私の周りには、全盲、あるいはそれに近い生徒が多く、
私はより強く「見える側」としての役割を求められていました。
たとえば、

  • 🧹 掃除
  • 🍽️ 給食の準備
  • 🍳 調理実習

こういった場面では、
👉 弱視が中心になって動き、全盲に指示を出す。
ここまでは、ある意味当然の流れです。
でも問題はその先。


⚠️ すべてが弱視の責任になる

もし誰かが手持無沙汰にしていれば
👉 「弱視がちゃんと指示していないからだ」
ぶつかる事故が起これば
👉 「弱視がちゃんと見ていないからだ」
片付け忘れがあれば
👉 「弱視が確認していないからだ」

そして最終的には、
👉 「見えてるんだから、もっとしっかりしろ」

矛先が全盲に向くことはあまりなく、
多くのことが弱視の責任として扱われていました。
これが、「見えている側」という立場です。


🗣️ 初めての抗議

私たち弱視生徒は、ついに先生に抗議しました。
話し合いの場で、

  • なぜ弱視ばかりが怒られるのか
  • 全盲には全く責任がないのか
  • 弱視も同じ視覚障碍者であることを忘れていないか

そうした思いを、正直にぶつけました。

さらに、全盲の生徒の話を聞いてみると、
👉 「自分のせいで弱視が責められているのがつらい」
👉 「申し訳ないと思っている」
という声がほとんどでした。
誰もが、それぞれの立場で苦しさを感じていたんです。

弱視が二人、三人いたとしても、
👉 健常者の視力になるわけではありません。
誰がどこで何をしているのか、
すべてを把握するなんて無理です。
それに、自分のことだってやらなければいけない。


🤫 忘れられないひとこと

あるとき、先生に怒鳴られました。
👉 「Cさんが手持無沙汰だぞ!」
私は慌ててCさんのもとへ向かいました。
そのとき、彼女が小さな声で言ったんです。
👉 「ごめんね。私が声をかければよかった」

正直、私も心のどこかで
「声を出してくれたら…」と思わなかったわけじゃありません。
でも、申し訳なさそうな彼女を責める気持ちは全く起きませんでした。


🤝 話し合いで見えたもの

この話し合いを通して、
弱視の多くが不満を抱えていたこと
全盲の多くが気まずさや罪悪感を感じていたこと
その両方が明らかになりました。


🌙 全盲になってから気づいたこと

そして、全盲になった今、
逆の立場で気づいたこともあります。

それは、
👉 弱視を頼ることの難しさ です。

視力がしっかりある人には、ある程度遠慮なく頼めます。
でも、弱視の場合は
どこまで見えているのか
どんなふうに見えているのか
👉 それが分からない。
だからこそ、
👉 どこまで頼っていいのか判断が難しい のです。

これは障害に限った話ではありません。
たとえば……
👓 老眼や近眼の人に代読を頼むのも、少し気を使います。
もちろん、どうしても必要なときはお願いするしかありません。

ヘルパーさんの中にも、老眼の方は少なくありません。
それでも頼みやすいのは、
👉 「役割として頼める関係」だから
老眼鏡やスマホを使いながら、
一生懸命サポートしてくれます 📱

でもそれは、
👉 「ヘルパーさんだから


🌱 それぞれの立場のむずかしさ

弱視にも、全盲にも、
それぞれの立場の難しさがあります。
そしてその間には、
👉 言葉にしにくい距離や遠慮がある
そんなことを、感じています。

視界のほころびに立って

🌱 あの頃の私が書いたこと

高校生の頃の作文で、
私はこんな意味のことを書きました。
「弱視よりも全盲、全盲よりも晴眼がいい」

何の障害もない、
晴眼 であることが一番です。

でも、視覚障害を背負えというなら、
中途半端に見えるより、いっそ全く見えない方がいい。
そんな意味です。

この考え方には、きっと賛否あるでしょう。
でも、当時の私にとってはとても切実な実感でした。


👁️ 進行していく「見え方」への不安

当時の私は弱視。
年々進行していくタイプの病気です。
視力も視野も、少しずつ落ちていく。
それを食い止める方法はありません。

眼科の医師は幼い私にこう言いました。
「いずれ、全く見えなくなる日が来る」
だから私は、ずっと「その日」に備えて生きてきたんです。


🏫 「弱視」はいちばん伝わらない

中学から盲学校に通っていましたが、
進行性の弱視ほど理解されにくいものはありません。
去年見えていたものが、今年は見えない。
でも、それをどう説明すればいいのか、
自分でもうまく言葉にできない。
周囲の人は、どうしても
「昔の私」のままで接してきます。
久しぶりに会う人ほど、
そのズレは大きくなる。


📖 教室でのいたたまれなさ

活字はルーペなしでは読めない。
それでも読みにくくなれば、拡大コピーに頼るしかない。
でも、どれだけ拡大しても
スムーズに読めるわけではないんです。

授業中に「ここ読んで」と当てられれば、読まざるを得ない。
どんなに時間がかかっても責められることはありません。
それでも、あの空気。
つっかえながら読む時間はどうしても辛いものでした。


⚠️ 日常に潜む「見えない危険」

ある日、外で電柱にぶつかりそうになったことがあります。
コンクリートと同じ色で、
まったく気づかなかったんです。
本当にあと一歩で正面衝突、という距離でした。

周りには先生たちもいました。
でも、ギリギリまで誰も止めてくれなかった。
それまでの私は、
「電柱が見えない」なんてことがあまりなかったから。
「見えているはず」という前提が、そこにはあったんです。


🤝 すれ違うコミュニケーション

弱視だと伝えていても、こんなことが起こります。
指をさして「あれ」「それ」と説明される
黙って手を差し出される

でも、その「指」も「手」も、見えていない。
結果——
話がかみ合わない
「握手を拒否された」と誤解される

少し前まで見えていたからこそ、
「見えない」ではなく「無視された」と受け取られてしまう。
これが、弱視の難しさです。


💥 忘れられない衝突

廊下で先生と話していた時のこと。
全盲の女子生徒が、壁伝いに歩いてきました。
私はその壁にもたれていた。
このままだと、ぶつかる——そんな状況。
でも先生は何も言わず、
ただ見ているだけ。
私は真横から来る彼女に気づかず、
結局そのまま衝突しました。

先生は一言。
「あんたが避けなきゃいけなかったね」
そこには、「見えているんだから」という前提がありました。
でも、視野の外から、音もなく近づいてきた彼女の姿は、
私には見えなかった。
正直、かなり腹が立ちました。
先生に対して、「いやいや、あんたが私に声をかけるべきだったんだよ。ずっと見えてたんだから」と言ってやりたかった。


⚖️ 「全盲」のわかりやすさ

その点、「全盲」という状態は比較的シンプルです。
もちろん、実際には全盲だって見え方に個人差があります。
それでも、「生活において視覚はほとんど使えない」
この一言で十分に伝わる。
弱視よりはわかりやすい。

「全く見えません」と言えば、
握手に気づかなかったとしても、
「拒否された」とは思われにくい。


🧩 弱視が抱えるズレ

弱視は、どうしてもこう見られがちです。
「見えにくい」ではなく
「少し見えている」

この違いは大きい。
特に盲学校では、
「見えている側」として扱われます。
そのズレが、日常のあちこちで積み重なっていく。


✍️ おわりに

実際に全盲になった時、
正直、少しだけ安心しました。

「どの状態がいいか」なんて、本当は簡単に言えることではありません。
どんな状態だって、いいことも悪いこともある。。
ただ、弱視として生きた時間があったからこそ、
全盲という状態の「良さ」に救われた部分もある。
そんな、少し複雑で、
でも確かな実感の話でした。

見えない=楽しめない、って誰が決めた?

🎬 見えなくても、映画もアニメも楽しみたい

映画やアニメを見ることがあると言うと、
よくこんなふうに聞かれます。
「副音声ってついてるんでしょ?」👀

正直なところ、答えはほとんどの場合「いいえ」です。
もちろん、副音声(音声ガイド)がついている作品もあります。
でも、その数はかなり限られているのが現状です。


🎥 副音声がある作品ってどんなもの?

印象として多いのは、例えばこんな作品です👇

  • 『タイタニック』
  • 『パイレーツ・オブ・カリビアン』
  • ジブリ作品
  • 『座頭市』
  • 『奇跡の人』(ヘレン・ケラーの物語)
  • 『姫百合の塔』

いわゆる
超有名作品や、障害・戦争など社会的テーマを扱った作品 に多い傾向があります。

もちろん、こうした作品に副音声があるのはいいんです 🙏
でも、本音を言えば——
👉「それ以外の作品にも、もっとつけてほしい」
これに尽きます。

映画だけじゃなくて、ドラマやアニメ、バラエティ、さらには演劇DVDにも。
興味のある作品は、ジャンル問わずたくさんあるんです。
映画だって、副音声があっても、作品そのものに興味がなければ見る気にはなれません。


🤔 「見えない=興味がない」は違う

どうしても世間には、こんな先入観があるように感じます。

「画面が見えないんだから、そういう作品には興味ないでしょ?」

それは大きな誤解です。
好きな俳優や声優が出ていれば観たいし、
好きな小説が映画化されれば気になるのは当然のこと。
副音声があるかどうかで、好きな作品が決まるわけではありません。


🎧 音だけでも楽しめるの?

これもよく聞かれます。
「音だけでわかるの?」と。

答えは——
かなりわかります。

イメージとしては、ラジオドラマやドラマCDとほとんど同じです 📻
登場人物の会話、効果音、BGMでストーリーが進んでいきます。

ナレーションがなくても成立する作品も多いですよね。
それと同じことが、テレビや映画でも起きているだけなんです。
むしろ、映像に頼りがちな人ほど、この感覚はピンとこないのかもしれません。


🎞️ それでも難しい作品もある

もちろん、すべてが問題なく楽しめるわけではありません。

  • セリフが極端に少ない作品
  • 映像表現に大きく依存する作品

こういったものは、さすがに想像が難しい。
でも逆に言えば、
👉セリフがあれば想像の手がかりになる とも言えます。


🎙️ 無声映画と「弁士」という存在

ちょっと余談ですが… 💡
映画がまだ「活動写真」と呼ばれていた時代、
無声映画には
弁士(べんし) という語り手がいました。

セリフや情景を説明してくれる存在で、
今でいう「副音声」に近い役割だったとも言えます。
そう考えると、あれはとても理にかなった仕組みだったのかもしれませんね。


📱 技術は進んでいるけれど…

最近では、映画館でリアルタイムに音声ガイドを聞けるアプリもあります 📱
ただし、これも
すべての作品に対応しているわけではない のが現実です。

また、ボランティアで副音声をつけてもらう方法もありますが、

  • 時間がかかる
  • DVDを自分で用意する必要がある
  • 作品によっては対応できない

など、気軽に利用できるとは言いにくい面もあります。


🧠 視覚障害者の中でも考え方はさまざま

実は、視覚障害者の中でも意見は分かれます。

  • 「副音声がなきゃわからない」という人
  • 「テレビとは縁がなくなった」という人

確かに、そういう人も少なくありません。
でも——
👉それだけじゃない というのも事実です。


💬 本当は、同じ話で盛り上がりたい

視覚障害があるとわかると、
「テレビとかアニメはわからないよね?」
と決めつけて、音楽やラジオの話に切り替える人が本当に多い。

そのたびに感じるのは、
👉「ああ、最初から選択肢に入ってないんだな」ということ。
でも本当は——

  • 🎉 アニメの話で盛り上がりたい
  • 🎉 ドラマの感想を語りたい
  • 🎉 映画の余韻を共有したい

そう思っている人も、ちゃんといるんです。


🌈 もっと“当たり前”に楽しめる未来へ

副音声が「特別なもの」ではなく、
もっと当たり前に選べるようになれば、
見える・見えないに関係なく、
同じ作品を、同じように楽しめるはずです。
そんな未来が、来ればいいんですけどね 😊

驚かれるたびに、少しだけ世界が広がる

🎬👀 見えなくても「観る」ということ

動画を見たり、テレビを楽しんだりしていると話すと、
健常者の反応はだいたい二つに分かれます。
ひとつは、
「うそだぁ」「まさか!」と、にわかには信じられない人。
もうひとつは、
「へぇ、わかるの?」と、不思議そうに質問してくる人です 🤔


❓広がる疑問、分かれるリアクション

さらに興味を持った人は、こんなふうに質問を重ねてきます。
「どうやって見るの?」
「副音声ってついてるの?」

そしてここでも、また二つに分かれます。
💬 どんどん質問してくる人
🙊 失礼かもと気を遣って、あえて何も聞かない人


🙋‍♀️ 私は「聞いてくれる人」が好き

これに関して、私個人の気持ちを言えば――
スルーされるよりも、興味を持って質問してくれる方がうれしいです ✨
なぜなら、
「どうして?」「どうやって?」という素朴な疑問から、
視覚障害についての理解が少しずつ広がっていくから。

そのやりとりの中で、たとえば
👉 「全盲の人はラジオしか聞かない」
そんな思い込みが、ひとつ消えていくかもしれません。


🌍 誤解は、放っておくと“常識”になる

もちろん、障害や病気についてあれこれ聞かれるのが苦手な人もいます。
その気持ちも、わかります。

でも一方で――
当事者が発信しなければ、
世の中には「たぶんこうだろう」という想像だけが残ります。
そしてそれが、いつの間にか
“常識”として広まってしまう。


🧩 「同じ障害」でも同じじゃない

ひとくちに視覚障害といっても、さまざまです。
生まれつき見えない人と、中途で見えなくなった人
全盲と弱視
点字の読み書きができるかどうか

さらに、生活スタイルや環境によっても、
「できること・できないこと」は人それぞれ違います。
だからこそ、
当事者の声で伝えていくことに意味があると思っています 🗣️


✋ でも、何でもOKなわけじゃない

とはいえ――
私は「失礼なくらい質問してくる人」には基本的に答えますが、
障害と関係のないことまで詮索されるのは、やっぱり苦手です 😅
私個人の情報を広めることに意味はありませんからね。


✍️ このブログを書いている理由

👉 視覚障害に対する誤解や先入観、
たとえば、目が見えないと言えば、
ものすごく哀れなものを見るような視線を向けてきて、「かわいそうに」を連呼してくる人がいます。
私には何がかわいそうなのか理解できません。
むしろ、相手のほうこそ狭い世界で生きて来たんだなとかわいそうになります。 そういうことを少しでも減らすため、このブログを開設したわけです。

そして、障害や病気を抱えてしまった人へ、
健常だったころを懐かしみ、今の自分を嘆くのではなく、
これからは何をどう工夫すれば、健常だったころに近い生活ができるのかを考えてほしい。
どうしても自力ではできないことがあったとしても、嘆く必要はないということを知ってほしいのです。
障碍者や病人は社会的には弱者かもしれませんが、
心まで弱者を決め込む必要はありません。


🔜 次回予告

本当なら、今回は
「副音声」の話を書くつもりだったんでした 😂
これはまた次回、じっくりお話ししますね!
今日はここまで 👋

「見えないなら、ラジオでしょ?」って思ってる人へ

🦯✨ 見えなくても「観る」——テレビと私の話

よく勘違いされることがあります 🤔
それは、
「目が見えないと、ドラマやアニメのような“画面ありき”のメディアとは無縁になるだろう」というもの。

さらに、「テレビの代わりにラジオを聴くのが当たり前」 📻 そう思っている人も、少なくないようです。
でも、結論から言うと、
画面が見えなくても、テレビや映画はじゅうぶん楽しめます

私はどちらかというと、
むしろラジオよりテレビのほうが好きです。


📺💭 変わらない「好き」という感覚

そもそも私は、
失明する前からあまりラジオを聴く習慣がありませんでした。
だから、今でもテレビの方が身近だったりします。
目が見えなくなったからといって、
生活スタイルや好みまで、急に一変するわけではありません 🙅‍♀️

ラジオは、私には少し
“音が少なすぎる”と感じます 🎧
番組の構成も、
パーソナリティのフリートークに音楽、リスナー投稿 📩
それがだいたいのパターン。
私にとっては「知らない人のトーク」を延々と聞いている感覚になりがちです。
正直なところ、
あまり面白いとは思えません 😅


👤✨ 記憶の中にいる人たち

その点、テレビの世界には、
子どものころから見てきた芸能人がたくさんいます 🌟
80年代生まれの私が小学生だったころは、
本当に面白いバラエティやドラマが数多くありました 📺

あの頃から活躍している人たちは、
私の記憶にしっかり残っていますし、
今でも声を聞けばだいたい誰だかわかります。


🎬📱 「見ない」のではなく「別の方法で観る」

とはいえ、今はテレビをほとんど見ていません。
でもそれは、
「見えないから」ではなく、
動画配信サービスがあるからです

見逃し配信という便利な仕組みもありますよね ⏯️
ここでよく聞かれるのが、
「画面が見えないのに、どうやって動画を“見る”の?」という疑問 🤔


私は音から状況を組み立てます。
会話の内容、声のトーン、効果音、BGM 🎶
それらすべてを手がかりに、
「今どこで、誰が、何をしているのか」を想像する 💭
このとき、いちばん重要になるのは「言葉」です。


❄️👣 音だけでは足りない理由

たとえば、
「ザクザク」という音だけを聞いたとします。
それが、シャベルで土を掘る音なのか、
固い雪の上を歩く音なのか、はたまた宝箱から金貨があふれる音なのか、
音だけでは判断できません。

でも、そこに
「ああ、寒いなぁ……」という一言が加わると、
一気に「雪の上を歩いている場面」が浮かび上がります ❄️
さらに、その人が冬の屋外にいることも見えてくる。
音に“言葉”が加わることで、
世界が立ち上がるんです ✨


🎨🎭 アニメがわかりやすい理由

そういう意味では、
実写よりもアニメの方が楽しみやすいと感じます。
アニメは、効果音もリアクションも大きく、
音としてとてもわかりやすく設計されているから 🔊✨

誰が何をしているのか、
どんな状況なのかが、音だけでも比較的伝わりやすい。
だからこそ、「見えなくても観られる」メディアなんです 📺✨


✍️🌙 おわりに

「見えない=楽しめない」ではなく、
「見えなくても、別の方法で観ている」。
そんなふうに考えてもらえたら、嬉しいです 😊
次回は、副音声についての話。
見えない人は、「副音声」を頼っているのか?という、
これまたよくある疑問について。

見えなくても、夢の中では景色がある

🌙 見えなくても見る「夢」の話

今日は、「夢」の話をします。
寝ているときに見る、あの夢です。

目が見えない人は夢を見るの?
この質問、私は耳にたこができるほど聞いてきました。

結論から言うと――
目が見えなくても夢は見ます。

もちろん、夢をほとんど見ないくらい眠りが深い人でなければ、ですけど。
ただし、
どんな夢を見るのか は、人によって少し違います。


👁️ 夢に出てくる「映像」の違い

大きな違いが出るのは、
ひとことで言えば
「映像」 です。

目が見えないといっても、
👉 生まれつき全盲の人
👉 途中で見えなくなった人(中途失明)
👉 弱視の人

など、状況はいろいろあります。
その違いは、夢にもちゃんと表れるんです。

私は中途失明で、
弱視ながら
17〜18年ほど見えていた時期 があります。

その間、自分の目で集めた視覚情報を、
脳のハードディスクに保存してきました。


🧠 脳の中の「映像データ」

全盲になった今でも、その記憶はとても役に立っています。
たとえば、
☀ 太陽
🌙 月
✨ 光
☁ 雲
🎨 色彩

こういった、手で触れられないもの。
もし一度も見たことがなければ、イメージするのが難しいものですよね。

でも私は、過去に見た経験があるので想像ができます。
そして
その記憶をもとに、夢にも映像がつきます。

夢に一度も行ったことのない場所や建物が出てきたとしても、
どこかに
現実で記憶した視覚情報のかけらが混ざっているはずです。


🎬 夢は「目」で見るものじゃない

夢は、目で見るものではありません。
頭で見るものです。

だから今でも、
私の夢にはちゃんと映像があります。 ただし、少し面白いことも起こります。


🧑 声から生まれる「夢のキャラクター」

失明したあとに出会った人が夢に出てくる場合、
その人は
声や人柄から想像したビジュアル で登場します。

しかも、私が意識して
「この人はこんな見た目かな?」
と考えるわけではありません。

最初から、
当たり前のようにそういう姿で出てくるんです。

脳が勝手にキャラクターを作って、
そこに実在する人の声や話し方を付与する。
そんな感じです。


👨‍👩‍👧 家族は「昔のまま」

一方で、
両親や妹が夢に出てくるときは、
私が見たことのある姿 で登場します。

今では20代になった妹も、
私の夢の中では
幼いころの姿のままです。

大人になった姿を見たことがないからでしょう。
たまに脳が勝手に
「現在の妹」を作ることもありますが、
家族の場合はなぜか、
実際に見たことのある姿 で出てくることがほとんどです。

ちなみに、失明後に出会った夫は、
幼いころの姿も知らないので、
見た目は100%想像 です。


📷 記憶の「解像度」

もうひとつ面白いのは、
脳に保存された映像データの
解像度 です。

これは、自分の視力に大きく依存します。
私は弱視だったので、
見えていた頃から、すべてが鮮明だったわけではありません。

だから、頭の中に保存された映像も
決して高解像度とは言えません。
見えにくかったものは、夢の中でも見えにくいまま。
あるいは、脳が勝手に補完します。
さっきの「失明後に出会った人」のようにです。


🌌 映像のない夢

では、生まれつき全く見えない人はどうでしょうか。
その人たちは、そもそも
映像データを持っていません。

でも――

触感
匂い
空気の感じ

そういった、
ほかの感覚の記憶があります。

だから夢も、
音や触覚、匂いなどで構成された夢になるそうです。


✨ 夢は感覚の記憶でできている

夢は、目で見るものではありません。
脳の中にある
感覚の記憶 が作り出すものです。

視覚の記憶がある人は、映像のある夢を。
視覚がなくても、ほかの感覚が豊かな人は、別の形の夢を。

人それぞれの記憶が、
それぞれの形で夢を作っています。
だからきっと、夢は誰にでも訪れるもの。
ただ、その
形式が少し違うだけ なのかもしれません。 🌙